アリスのままで(リチャード・グラツァー他監督2015年作品)
「なくす技を覚えるのは簡単。多くのモノが失われるのは 災いではない」
(「アリスのままで」で引用の詩人エリザベス・ビショップの言葉 )
あらすじ
コロンビア大学の言語学教授のアリス・ハウランド(ジュリアン・ムーア)は、UCLAに招かれて講演を行う。講演中ふと言葉に詰まった。冗談として切り抜けたが気になる。また、大学構内をジョギングしていて、ふと道に迷ってしまう。
そんな彼女は、夫ジョン(アレック・ボールドウィン)と暮らしていて50歳になった。三人の子供がいて、別居している。娘リディア(クリスティン・スチュアート)は、劇団に所属してるが、自分の人生を生きていると満足している。アナ(ケイト・ボスアース)は、法律を学んでいる。トム(ハンター・パリッシュ)は医学を学んでいる。
物忘れが気になり、長老派教会病院の神経科医師に診て貰った。問診の中で近時記憶障害の傾向を指摘され、次回MRI検査を受けるので、家族を同行してほしいと医師は言う。アリスは夫に同行してもらうことは気が進まないので、一人で再診を受けた。MRIは正常だが、若年アルツハイマー病らしいので次回は必ず家族と来るようにと医師は念を押した。
そのため、アリスはジョンに打ち明けた。ジョンは信じなかったが、アリスは「人生を捧げて来たものが何もかも消え壊れる」と号泣した。二人で神経科医師と面談する。「アミロイド値が高い。現在の症状が裏付けている」と遺伝子検査を勧めた。遺伝子検査の結果は家族性のもので子供達にも100%遺伝すると言う。そこで子供達が来たときにアリスはそのことを告げる。「君たちの意思で検査を受けてくれ」とジョンは言った。
アナは陽性でトムは陰性。リディアは拒否をした。アナは人工授精だが出産を望んだ。大学でのアリスの講義に学生たちに不満の声が聞こえ始めたため、学部長にそのことを伝えた。そんなアリスは、パソコンに質問に答えられなくなったら次の段階に進むことを入力し、「蝶」のフォルダーを開くことにした。
アリスはジョンに「私が私でいられる最後の夏」と言い30年前のギリシャ旅行を懐かしむ。その後は子育てと仕事に貪欲であっという間だったと回顧する。トムやアナが訪ねて来た。翌日、リディアが出演する劇場へみんなで見に行く。終演後、みんなはリディアを褒め称えた。一瞬、アリスはリディアを他人と勘違いして、アナから窘められる。
再診に二人で行く。進行のスペースは遅れる者もいるので希望を持てと医師は言う。そんな中、アリスは認知症介護者の会合で講演を頼まれていた。3日かけて原稿を作り上げ、家族や医師も参加して講演を行った。詩人ビショップの言葉を引用した。「なくす技を覚えるのは簡単。多くのものが失われるのは災いではない。私は日々、なくす技を修得している。しかし、まだ生きている。私は苦しんでいない。戦っている。過っての自分であろうと。」
参加者は全員拍手をして講演を称賛した。
ジョンはミネソタの病院に自分の研究チームが招聘された為行く決心をした。アリスは引っ越しを嫌がった。アリスの物忘れは一層進んだ。そんな中、アナが双子を出産した。次第にアリスは自問自答に答えられなくなり、極限状態になった。最後の手段は、服薬自殺だったが、介護士が戻って来たため錠剤をばら撒いて失敗する。結局、リディアが家に戻りアリスの世話をすることとなった。リディアはアリスの言動をすべて受容してやったためアリスは平穏に過ごすことが出来た。
感想など
主人公の50歳の大学教授は言葉の忘れ、道の迷い、物忘れなどが気になり、神経科の診断を受ける。医師から年齢の割に「アミロイド値が高い」と若年アルツハイマー病と診断をされる。さらに家族性のもので、子供等に遺伝する可能性を指摘される。
家族も青天の霹靂で、動揺するがやがて冷静に対応すようになる。「私が段々と私でなくなる」という不安。子供等も遺伝すると聞き、検査で陽性となった娘、検査拒否の娘、陰性だった息子、それぞれが相当なショックを受ける。しかし、家族はアリスの病状を受容し、共生しようとお互いが、アリスの病気について理解を示していく。
彼女が言う「自分が自分で無くなる」という喪失感は人生の場でいろいろな場面で遭遇するものだ。交通事故や自然災害、ガンや認知症など病気や障害、高齢による衰弱など精神的にあるいは肉体的に、徐々にあるいは青天霹靂にその人に降りかかってくる。アリスは「むしろガンの方がよかった」と嘆くが、ガンの人から見れば「認知症の方がよかった」嘆くものになるかもしれない。
家族の対応はよかった。夫はアリスの症状を理解し、受容した。アリスの話をよく聞いた。逆らわず受容と共感の態度で接した。娘も日記を盗み見され一度は腹を立てたものの、後になって謝って和解した。大学教授であるアリスだから見識があり、人格が優れていると言うことではない。大学教授の夫だから子供だから理解が出来るというものでもないだろう。そこにあるのは人間としての在り方の問題である。
アリスは、まだ意識があるうちにパソコンの中に自問自答が出来なくなったときに自分のとるべき行動を入力して置いた。つまり極限状態になった時、服薬自殺をすることだったのだが、訪問介護士が帰って来て、服薬自殺は失敗に終わる。認知症ですべてを失ったようだが、永遠に無くなるモノはないという考えを説いて映画は終わる。
ジュリアン・ムーアは、素晴らしい演技だった。方向感覚をなくし、モノを失くし、眠りを失くし、記憶を失くしていく若年認知症として、徐々に身も心も壊れて行く過程を痛々しく演じて見せてくれた。そんな過程を見ていると自分が老いて行く過程と重なるものを感じてしまう。一方、詩人ビショップの「多くのものが失われるのは、災いではない」の言葉が胸に突き刺ささり、「私は苦しんではいない。世界の一部であろうと今の瞬間を生きている」という戦う姿勢も持とうと足掻く。
GALLERY
ジョギングで一瞬迷子になるアリス 子ども達のアン・リディア・トム
若年性認知症と診断される ジョンと共に結果を聞く
アンと夫 トムにアルツハイマー病を告白する
講義で生徒から不満がでる 遺伝性なので子ども達も検査
パソコンに将来の行動を入力する 家では認知症が進む
娘に大学に戻るよう勧める 家族はアリスの行動を受容する
再診 認知症介護の会合で講演するアリス
ジョンはミネソタに行きたいと言う アナの出産
アリスは自殺を失敗 リディアが家に戻った
アリスの介護をするリディア タイトル
万引き家族(是枝裕和監督2018年作品)
「僕、わざと捕まったんだ。」
(「万引き家族」から翔太の言葉 )
あらすじ
東京の下町にあるボロ家屋に柴田初枝(樹木希林)は、息子治(リリー・フランキー)と妻信代(安藤サクラ)と孫翔太(城桧吏)、そして信代の妹亜紀(松岡茉優)と5人で暮らしている。ただ、公には初代が独居老人として暮していることになっているので、民生委員が来るとみんなを外出させる。
初代には年金(実態は慰謝料?)月6万円の収入がある。治は日雇い作業員で、信代はクリーニング工場のパートだ。収入が少ないので、治は翔太と一緒にスーパーなどで日用品などの万引きで収入を補っている。亜紀は風俗で働いている。翔太は「家で勉強が出来ない奴が学校に行っている」という理屈で学校には籍がない。
ある日、治と翔太が万引きの帰り道、団地の外廊下にたたずんでいる「ゆり」と名乗る5歳の女の子を連れて帰る。信代は帰せと団地に戻そうとしたが、部屋から「生みたくて産んだ子じゃない」と母親らしい声が聞こえたので、二人は不憫に思い柴田家で一緒に暮らすことにした。実は翔太も治が車上荒らしをしていた時、空腹で車の中にいたとき、治が連れて来たのだった。
翔太はゆりと一緒に雑貨屋で万引きした。その日、治は工事現場で右足の骨に皹が入るケガをした。一ヶ月は働けず労災は下りない。収入のない治は、釣具店で高級な釣竿を翔太とゆりの3人で万引きした。翔太はゆりを使うことに躊躇していたが、治は「ゆりだって、家の役にたちたいだろう」と翔太を納得させる。
そんな中、テレビで5歳の少女が二か月も行方不明になっているとゆりの動画が放映された。両親は捜索願も出しておらず、警察の取り調べを受けているとのことだった。治は連れて帰るかと言うが、信代は帰さないで、自分の娘にしたいと言う。翔太も妹にしたいと言い、バレないように髪の毛を切って、家族にすることと決めた。今後は「りん」と名前を変えることにした。
信代はクリーニング工場をクビになる。同僚がりんのことを嗅ぎつけていたため脅迫された。初代は、夫の後妻の息子夫婦から慰謝料を貰っていた。命日には押しかけて仏壇を拝み3万円をせしめる。その息子夫婦の長女が亜紀だった。柴田家は、6人家族となり、和気藹々と仲良く暮らすことが出来た。夏には海水浴へ出かけ楽しんだ。
だが、初枝の急死した。治と信代は初枝の始末に困り、敷地内に埋めた。家族には最初から初枝がいなかったことにしようと申し合わせる。初枝は預金とヘソクリを残していたため、治と信代は喜んだ。そんな二人を翔太は複雑に見詰めた。翌日、翔太はりんと共にスーパーに行き、翔太は万引きしようとした。りんにはさせないつもりだったが、りんが独断で万引きしよてしたため、翔太はりんを庇うため、大袈裟に盗って外へ逃げた。追う店員に捕まりかけた時、とっさに陸橋から飛び降りてケガをする。
翔太が緊急入院したため、警察が治と信代を呼び出した。治と信代は警察を恐れていたのだった。翔太・りん・亜紀を柴田家に残して逃走するところを逮捕された。翔太とりんは児童福祉司からいろいろと聞かれる。そして、治と信代は本名があり、痴情のもつれから信代の前夫を刺殺して埋めた犯人で前科者だったのだ。亜紀は初枝が実の両親から慰謝料を取っていたことを警察から知らされる。
治と信代は柴田家にこども等と亜紀を残して逃走するつもりだったが、警察が二人を捕まえてしまう。そして柴田初枝の死体遺棄が判明。死体遺棄については信代が一人でやったと供述し、刑に服することとなる。治は無罪となり、別のアパートに一人住むこととなる。
翔太は児童養護施設に入り、学校に通うこととなった。りんは両親の元に帰された。
刑務所で治と翔太は信代と面会した。信代はみんなで柴田家で暮らしたことは楽しかったと言う。そして翔太に連れて来た場所と車の車種を教え、親を探したければ探せることを教える。面会後、二人は治のアパートに行き一泊した。別れ際、もう会えないと治は言う。
最後に翔太は「僕はわざと捕まったんだ」と告白し二人は別れる。
感想など
疑似家族(他人同士が家族として暮すもの)の、家庭崩壊の話である。映画は当初、家族のような団らんもあり、みんなが疑似家族だとは分からない。しかし、話が進行するにつれて、徐々に他人の集まりであり、全員が赤の他人であり、みんなしたたか者であることに唖然となる。「店の商品は誰のものでもない」という破天荒の理論をもつ治は、翔太と組んで日々万引きをして暮らしている。初代はパチンコ店で他人の出玉箱をこっそり盗んでしゃあしゃあとしている。信代はクリーニング工場で、衣服に会った貴金属をネコ婆する。
最後まで映画を見ないと彼らの過去と正体が分からない。下町のボロ家屋に住む独居老人柴田初枝は、前夫に捨てられた。別の女と一緒になり息子も出来た。その前夫からは慰謝料を取って暮していたが前夫の死後は、その息子の成人した娘を同居させ慰謝料を継続的にもらっていた。そんな中に痴情の果て、夫殺しの前科者治と信代と同居。治は車上荒らしの際、車で腹を空かせていた翔太を連れて来る。また、虐待でいる場のないりんを連れて来た。柴田家は、そんなどこへも行き場のない人達の疑似家族だったというもの。
彼等は、「罪を憎んで人を憎まず」「盗人にも三分の理」などの格言とは一線を画している。何故なら彼等は「万引き家族」であり「犯罪家族」であり、ずる賢い打算だ。いわば社会のアウトローであり、個人としては生きられず寄っかかり合う、互助の集まりである。そんな彼らの目指すものはなんだったのか。社会から疎外され、また家族と言う集団からも疎外された人間だが、社会で生き抜く手段を求めた。
私生活は家族によって構成される。個人に個人がバラバラであれば、自由気ままであるが、個人だけでは生きられない弱い人間はたくさん存在する。人は家族から生まれた。例外はあるが、心の絆、ギブ&テイクの打算、お世話しお世話されるお互いの助け合い、ちょっとした言い争いする息抜き、育て育てられる使命感などなど、身近な家族がいると心強い。
柴田初枝の死から疑似家族に変化が始まる。初枝の預金やヘソクリに歓喜する治と信代。それを見ていた翔太は、りんに万引きをさせないため、ワザと捕まってしまう。逃げて負傷して救急搬送され、そこから柴田家の内幕が全て洗いざらい警察にバレてしまう。信代は死体遺棄の罪を背負って刑務所に入る。そのことによって翔太は児童養護施設。りんは両親の元にり、その疑似家族は崩壊してしまう。
半世紀前に小津安二郎監督が、家族の崩壊をいろいろと描いて見せてくれた。まるでバブルのように新しい家族ができて、崩壊して消えていく。我々はそれを実感して生きている。
この映画の柴田家が、疑似家族を作り上げ、当然普通の家族とは違ったかたちで崩壊する。それは一時の幻想と必然の結果であった。
疑似家族を広くとらえると「養護施設」「グループホーム」「シェアハウス」なども入るかもしれない。ただ、「親は子を選べない」というように制度としてのもので、本人の自由意思が通じない一面もある。法的な制度としては、養子縁組制度があり、これは赤の他人でも家族になれるし、遺産相続や扶養義務など権利義務を負わされる。この映画の疑似家族は、本人達の自由意思で生き残りを夢見た、つかの間の幻想的家族の結末である。
いたけない子供や「店の商品は誰のものでもない」という荒唐無稽な理屈で万引きをする大人の行為は、常軌を失している。映画はそんな常軌を失している人間を描いている。だが、そんな社会悪を肯定している訳ではない。ただ現実に万引き行為は、日常茶飯事に存在する。反面教師として描いた意味合いもある。多分、それは人間の孤独を浮き上がらせるための手段として常軌を失している行為を取上げて見せているのだと思う。監督が述べたかったのは、まさに人間の孤独と人との絆をどうしても必要とする人たちの幻想を見せたかったのかもしれない。
GALLERY
タイトル 空腹のゆりを連れてくる
翔太はゆりと菓子とシャンプーを万引き 柴田家の一員となるゆり
テレビがゆりの行方不明を報じた 初枝は前夫の後妻の子から慰謝料を貰う
和気藹々の柴田家 家族で海水浴へ
初枝が死んだので庭に埋める 翔太が万引きで逃げ負傷する
警察や児相の調べで柴田家の様子がバレ、ゆりも翔太も調べられる
亜紀は治も信代も前科者だと聞く 死体遺棄は一人でやったと信代
ゆりは親元に戻る 信代に面会する治と翔太
治のアパートに行く翔太 翔太は養護施設に戻り、お別れする
素晴らしき日曜日(黒澤明監督1950年作品)
今日は二食抜きだが腹は減らないよ。」
(「素晴らしい日曜日」から雄造の言葉)
あらすじ
終戦直後の東京。雄造(沼崎勲)は復員して友人の家に下宿しながら職を得たが、生活に余裕はない。雄造には戦前から付き合っている昌子(中北千枝子)という恋人がいるが、昌子も姉の家に同居しながら働いている。そんな二人だが日曜日には待ち合わせてデートする。
気晴らしに雄造はこども達の草野球で打たせて貰うが、打った球が饅頭屋の店に飛び、饅頭を3個台無しにする。それを10円で分けてもらい一つをこどもにやり、二つを二人で食べる。雄造は戦友が銀座でキャバレーを経営していることを思い出し、見学させて貰おうと出かける。しかし、友人は不在で支配人からタカリと思われ金銭を渡されるが、店の用心棒に返してしまう。
昌子の作ったおにぎりを食べる二人の前に浮浪児が来て欲しいと言う。一つやると浮浪児は10円札を出した。しかし、昌子は浮浪児が不憫で受け取らなかった。沈んだ気持ちになった昌子に雄造は動物園へ行こうと誘う。動物園を出た二人は、次の時間を持て余すのだが、残金は20円しかない。雄造の下宿先の友達は夜まで留守だ。下宿へ行くか、昌子の姉の家に行くか、このまま別れるか迷う。だが、昌子は東京公会堂でやる「未完成交響曲」のコンサートのポスターを見つけた。入場料は、B券なら一人10円だ。初めてのデートも同じコンサートだった。
二人は東京公会堂をめざし走る。公会堂は長蛇の列。だが切符売り場に着いたときは、ダフ屋に買い占められたB券は売り切れていた。雄造はダフ屋に10円で譲れと頼むが、15円でないと譲らないと言う。押し問答の末、雄造はダフ屋たちに殴られてしまう。やむなく二人は雄造の下宿に行くが、みじめな気持は治まらない。幸い雨は止み、昌子の気持ちを察した雄造は喫茶店に誘う。ところがコーヒー、お菓子にミルクを足したため代金を30円請求され、持ち金が足りずコート脱いで置いてくる羽目になる。
喫茶店での幸せな気分も借金でメチャメチャになる。しかし、まだ空襲の焼野原の残る外に出た雄造は突然「二年先でも五年先でもいい。二人でベーカリーをやろう」と夢を語りだす。そして野外音楽堂を見付けて行ってみる。二人とも夢が描けるならきっと楽団がいなくても音楽が聞こえる筈だと編み棒をタクトに雄造は指揮を始める。だが、簡単には音楽は流れてこない。そこで昌子は観客に向かって「お願いです。拍手をしてください。私たちのような貧しい恋人達に声援を贈ってください」と哀願する。
するとどうでしょう。シューベルトの「未完成交響曲」が流れてくる。二人の夢が叶ったことを想像するのだ。駆け寄り抱擁する二人。また、来週の日曜日にランデブーすることを約束して別れる二人。駅のホームに落ちている吸殻を今度は踏みつける雄造だった。
感想など
終戦直後の東京で、貧しいカップルが日曜日にデートする一日を淡々と描いている映画だ。1990年代から言われているワーキングプア(働く貧困層)は、いつの時代でもあったことが分かる。二人はベーカリーを経営することが夢だが、現状では住むところさえもない始末。黒澤監督の弱者への寄り添いが見事に展開している。
黒澤流の諧謔はまだある。動物園見学にも悲しい笑いがある。ライオンの檻にブタが入れられている。家はいらず水に住める白鳥、熊の豪華な毛皮の外套、紙が食べられる山羊、キリンの素晴らしい家などが羨ましい、また猿からは自分たちが哀れに見られているなど雄造は感じるのだ。
一番悲しいのは、「未完成交響曲」のコンサート会場だろう。ひとり10円のB券はダフ屋に買い占められて、15円の値で売られている。20円の持ち金では入場できない。ダフ屋と喧嘩して殴られる哀れさ。踏んだり蹴ったりの悲哀は極限達する。やむなく雄造の下宿に行くが、惨めさは晴れない。幸い雨は上がり二人は喫茶店へ行くが、うっかりコーヒーにミルクを垂らしたためお金が足りず借金となる。そんな喫茶店のあくどさが、逆に安く良心的なベーカリーを作りたい決心に繫がる。何年先でもいい自分の店を作ることを夢に見る。
最後の見せ場は、誰もいない屋外音楽堂で、初デートで聞いたシューベルトの「未完成交響曲」の幻の演奏を再び聞くシーンだ。簡単に幻は出ないため昌子は映画の観衆に向かって拍手や声援を懇願する。信念は岩をも貫き幻の演奏は聞こえたのだ。そして来週会うことを約束して二人は別れる。冒頭、吸殻を拾った雄造だが、今度は落ちている吸殻は靴で踏みつけて終わる。
場面やアングル、進行に工夫や実験が試みられている。安アパートの管理人室から見た二人の姿をぼやけさせたり、土管を利用して円の中に座らせたり、草野球をしている子供達の前をトラックや牛車を通らせたり、二人の背景から浮浪児を撮ったり、満月を背景にブランコに乗る二人などなど、昌子が観客に話しかけたり、いろいろな場面に変化を付けていて退屈させない。
格差社会は、いつの時代でも同じだ。非正規や派遣で働く庶民は、やはりワーキングプアだ。共稼ぎでも結婚が出来ない。晩婚化や独身が増えている。それに加えて少子化だ。大企業のエリートを除いて9割の中小零細の従業員にアベノミクスの恩恵は届くのだろうか。映画はそんな人たちにも夢や心の豊かさを失わないで欲しいことを訴えている。
アラビアのロレンス(デーヴィット・リーン監督1962年作品)
スモーク(ウェイン・ワン監督1995年作品)
0.5ミリ(安藤桃子監督2014年作品)
「お互いにちょっとだけ目に見えない距離を歩み寄れば
心で理解できることってあるよね。」(・∀・)
(「0.5ミリ」から山岸サワの言葉 )
あらすじ
地方都市の介護ヘルパー山岸サワ(安藤サクラ)は、介護派遣会社の独身寮で生活をしている。
寝たきり高齢者片岡昭三(織本順吉)の介護をしていた際、出戻りの娘雪子(木内みどり)から「冥途の土産として、一晩だけ添い寝をしてやってくれないか」と懇願される。昭三は亡き妻を恋しがっているという。現代っ子のサワは、お金目当てでバレたらクビになるので内緒にしてくれと承知した。ところがその晩、昭三は興奮して石油ストーブに触れて火事を起こす。おまけに雪子は自殺して警察沙汰となり、職場と寮を出されてしまう。
街をさまよっているとカラオケ店で、泊めてくれと頼んでいる高齢者康夫(井上竜夫)を見付ける。それを見てサワは、康夫を強引にカラオケボックスに連れて行く。戸惑っている康夫に対し、明るく振る舞いはしゃいで見せた。康夫もそのうち喜んで歌を唄いご機嫌になってしまう。疲れた二人はその後、仮眠をとり朝になった。康夫は息子夫婦に反発してプチ家出したのだと言う。別れ際、そっとサワの手にお金を渡し、来ていた外套を着せてくれた。
サワは自転車置き場でバンク魔をしている石黒茂(坂田利夫)を見かけたので警察にチクると脅かし、その家に住みつく。石黒は娘夫婦に相手にされず、一人暮らししていた。そんな石黒が自転車ドロの常習犯と分かり、サワは盗んだ自転車をすべて返させる。またお金はあるようで、友人と称する斎藤(ベンガル)の詐欺に遭いそうなのだ。それを知りサワは、斎藤の詐欺行為を暴いて助ける。そんな石黒は、帰るべきところに帰ると言って自分の車をサワに運転させ老人ホームに戻って行き、その車をサワに与えた。
車を貰ったサワは百貨店に行く。そこでサワは、エロ本を万引きした高齢教師真壁義男(津川雅彦)にバラされたくなかったら家に連れて行けと脅して住み込む。真壁家には、義男の妻静江(草笛光子)が寝たきりでいて、週何回か浜田(角替和枝)というヘルパーが介護している。サワは義男の教え子で恩返しとして無給で賄いをするという触れ込みにした。静江はサワの扱いが手馴れているので気入ったようだ。義男は若い女性に関心はあるが、教師として気持ちをぐっと抑えている。
しばらくして義男も認知症になったようで、サワのことを編集者と勘違いして、自身の戦争体験をくどくどと語る。戦争は馬鹿げている、死んだ人は気の毒だ。生きて帰ったのは申し訳ないとな涙さえ浮かべる。そんなところへ真壁夫妻の姪っ子久子(浅田美代子)が訪ねて来て、これからは自分が二人の面倒を見ると住み込むこととなった。そんな状態になるとサワは、居る必要が無くなったと感じで、真壁家を立ち去ることにした。
車で走っていると以前、添い寝を頼まれて火災になった片岡家の息子マコト(土屋希望)が駄菓子屋で無銭飲食しているのを見かける。母親が自殺したため、生まれる前に離婚している父親の佐々木健(柄本明)の家に転がり込んでいたのだ。マコトは口をきかずメモ用紙に筆談でそのことを知らせた。サワはマコトに同行して、住み込んでいいか父親に頼むと家事をやってくれれば泊まっていいと承諾した。
マコトは片岡家から大量の自分の本を持ち込んだ。口をきかず、学校には行かず、日中はぶらぶらしているだけのようだ。健は以前、海の家をやっていたが、廃業してしまい今は対岸の造船所で日雇いをしている。家の中はゴミ屋敷のように荒れ果てている。健は酔うとマコトに金を稼げと叱る。そんな諍いの日、マコトは家を飛び出した。それを必死で追うサワ。
追いついたとき、サワはマコトが男の子でなく女の子だと気づく。車のトランクに片岡家の紙袋を思い出した。中にはピンクのワンピースが入っていた。そしてトランクには、黒田茂がくれた100万円も入っていた。サワはゴミ屋敷に戻ると健に別れを告げて、着替えたマコトを連れてどこかへ旅立った。
感想など
介護ヘルパー会社をクビになり、行くところがないので、押しかけ女房ならぬ押しかけヘルパーになる。さまざまな高齢者と出会い、持ち前の図々しさと明るさで甲斐甲斐しく面倒することを厭わない。扱い方が上手ですぐに高齢者と親しくなれる。そんな出会いと別れをオムニバス的に見せてくれる。高齢者の介護問題を考えるというよりもそれを題材にしたエンターテイメントとして見る作品。
のっけからショッキングな展開である。ある意味、介護の領域を逸脱した狂気の沙汰の展開だ。ただ、こんな過激な修羅場場面と安藤サクラの可愛らしさが醸し出す不思議な雰囲気はむしろ可笑しさ漂わせてしまうので面白い。高齢者が「冥途の土産」の添い寝を望んだり、自転車ドロやパンク魔をやったり、エロ本を万引きしたりを多くの高齢者がやるわけでないし、主人公のような押しかけヘルパーが何人もいるとは誰もが信じないだろう。
「0.5ミリ」とは、戦争体験のある高齢者が主人公にテープで語りかけた中に「人と人の心を動かすのは0.5ミリかもしれないが、その数ミリが集結し同じ方向に動くと革命ははじまる」を聞いて主人公が、マコトという少女(少年)に「お互いにちょっとだけ目に見えない距離を歩み寄れば心で理解できることってあるよね。」と語りかけるところで引用する。
トランプ大統領の言う国境の壁は、国を分断して関係を絶とうと言う発想だ。いろいろな壁は無数にある。人種の壁、障碍者の壁、男女の壁、思想・宗教の壁などなど。壁の厚さは様々だろう。作者や監督が言いたいのは、お互いが0.5ミリでも近寄れば、いくらかでも越えられる可能性を持っていると言うことだろう。だから主人公は、助けを求める者に献身的に奉仕しようとしたのかもしれない。ただ、見方を変えれば、0.001
ミリであっても壁は壁で突き破ることは不可能だと言う論法もある。主人公は前者の考え方を貫いているところがポジティブで素晴らしい。(⌒∇⌒)
GALLREY