わたしの渡世日記(高峰秀子著1976年刊)
「演技に先立つものは、常に真実である
人の痛さを知る心だろう」
(エッセイ「わたしの渡世日記」から高峰秀子の言葉)
あらすじ
高峰秀子の実の両親は、平山錦司とイソだが、秀子は錦司の妹平山志げの養子となった。母イソの死後、錦司は秀子の兄3人と弟1人も養子に出し、再婚してしまった。そんな関係で秀子は、父親への愛情や会いたい人という感情は皆無と書いている。また養父の荻野は、ドサ周りの弁士でほとんど留守がちで養母の志げとは夫婦の情感のない暮らしぶりだった。そんな養母の志げは「高峰秀子」という芸名で女弁士として暮らしを支えたという。秀子は養母の芸名をそのまま受け継いだのだった。
転機は、家主の友人の紹介で養父母と共に、松竹蒲田撮影所を見学したときだった。偶然、「母」という映画の主役の5歳の少女を募集していた。養父は突然、秀子を応募者の列に並ばせたのだった。監督の野村芳亭が、秀子を見て選考は解散した。採用通知が来て驚いたのは養父母だった。その後は毎日のように、養母と一緒に撮影所通いがはじまった。
当時の子役は、女の子も男の子の役をさせられたという。昭和6年蒲田の小学校に入学したが、撮影は昼夜にわたり、10歳まで学校へ行くのは稀だった。そのため成績はアヒルの行列だったという。そんななか、当時の人気歌手東海林太郎夫妻から養女にほしいと懇願され、養母と共に同居したが水は合わず1年半で出ることになる。
満足に学校に通ったことのない秀子は、13歳のころ宝塚少女歌劇団に入る決心をした。知り合っていた水谷八重子を通じて小林一三に話しが行き入団が決まった。しかし、当時CMの仕事がかなりあり、写真家との縁から「松竹」「東宝映画」に引き抜かれて宝塚の話はおじゃんになった。秀子の意思よりも母の意思だったため、秀子は、女学校へ通えることを条件にして、承知して御茶ノ水の文化学院に入った。そこは制服がなかったが、秀子は紺のセーラー服で通った。東宝での初仕事は「良人の貞操」だった。その後も撮影に忙しく文化学院も出席が足りず、進級できず退学となった。
山本嘉次郎監督の「馬」撮影で青年黒澤明と知り合う。その後秀子は黒澤に恋心を感じていて、東京の自宅を母の目を掠めて訪問したが、母が追いかけてきて連れ戻された。黒澤とはその後も撮影所で顔を合わせたがそっけなかった。17歳の秀子は「そっちに気が無ければ」と追う事もなく恋は自然消滅したという。
戦後、小津安二郎の「宗方姉妹」に出演して、大仏次郎や志賀直哉とも交流した。「細雪」では谷崎潤一郎を知り、安倍能成、ドナルド・キーンとも交流した。竹原はん、新島出とも知り合う。また、チャーチル会の創立に関わったとき画家梅原龍三郎とも知り合い、「カルメン故郷に帰る」で浅間山へ行ったとき、同じ浅間山を描いていた梅原氏と出会い、モデルになった。その後、梅原氏には何枚もの絵を描いてもらっていた。その後、成瀬巳喜男監督の「浮雲」「放浪記」などの傑作に出演することとなる。
昭和30年3月に秀子は、松山善三と結婚した。きっかけは、「二十四の瞳」で高松に滞在した時、木下恵介監督が「秀ちゃん、ちょっと」と言って「松山君が秀ちゃんと付き合いたいっていうんだ。人間は僕が保証します」と言われた。直ぐに「バカバカしいと思ったら忘れてください。スターの秀ちゃんに助監督と付き合えなんてね」私は、ちっともバカバカしくないと思った。そして翌日「付き合ってみます」とお答えした。そんなエピソードも語られている。
感想など
l 高峰秀子さんは大正13年生まれ、平成22年没。5歳で子役として映画デビュー。「二十四の瞳」「浮雲」「喜びも悲しみも幾年月」など、400本以上の映画に出演し、昭和時代の代表的女優さんです。昭和54年現役引退後は、エッセイストとしても活躍し、この本は高峰秀子さんの半生を語っているものです。
l とにかく、ズバズバと赤裸々に自分の心情も、生育歴も、有名人との交流も実名で書かれています。生い立ちは複雑ですが、肉親や兄弟、親戚についての心情は、包み隠さず気持ちのままに書き綴っているので、読む者には生々しく感情を揺さぶります。
l ごく普通の家庭であれば、両親への敬愛や感謝が綴られるはずですが、高峰さんは実の親から見離されたという意識が強い。養母は簡単に養父を捨てた。実の父は再婚して実母の子供達を捨てた。実の父が死んでも情愛はなく、会う気もなかったと言い放つのです。しかし、ラストで「私は、この本で母を繰り返しそしり、恨み憎み続けた。だが、この母がいたからこそ自身が発奮し、生きることへのファイトが沸いた。母の狂気のような眼が光っていたため、汚れもせず清潔な結婚をし、今日の幸せがある」と書いています。
l 高峰さんの人間を見る目、心を見抜く目の鋭さには驚く。当時のコメディアンのエノケンが、酒を飲み面白くないと人が変わったように怒った。でも翌朝は下出に謝る姿を何回も見たという。また、古川ロッパが、たった一人でしょっちゅう食事をしていたという。コメディアンほど生真面目で孤独な人は多いという。金語楼・植木等・渥美清・藤山寛美・伴淳三郎しかりだという。私も仮面を被った生身の人間だと言い切る。
l 肉親の情に薄かった秀子さんだが、子役となったときには、随分と監督や他の俳優から愛されていた。長谷川一夫・坂東好太郎。養子にしたいと懇願した東海林太郎夫妻。親代わりになりたいという人は、東宝社長・入江たか子・千葉早智子・大川平八郎・岸井明・山本嘉次郎などもいたという。
l 高峰さん自身は、自分は学校へ行かずなんの知識も無い人間だと卑下しています。しかし、子役の頃は、台本全てを丸暗記していたという。他人のセリフまで覚えていた。また、身をもって体験した人生の知識は豊富だ。芝居を演ずることによって人間とはなにかを学んだ。そのことは谷崎潤一郎・宮城道雄・川口松太郎・新村出等々どんな勝れた文化人と接しても引けを取らない体験に裏打ちされた知性が見えます。
l 高峰さんという女優は、実に巧みで優れた女優さんで偉大な存在です。ただ、どこか翳があって、人を寄せつけない雰囲気もあります。やはり、肉親の愛情に満たされていなかった生育歴からでしょうか。この本からもそんな様子が伝わってくるような気もします。なにもかも判っていて、人を寄せつけず、間とって人を見続ける。しかし、そこには悲しみを超越した温かな心が宿っている。そんな感じです。映画「稲妻」のヒロインと高峰さんの生き様が重なり合いました。
l 昭和30年に秀子は、松山善三と結婚しました。「利口ぶっても、お里が知れる。明るい笑いのある家庭にしたい」と幸せな夫婦として過ごしていました。彼女はやはり、女優として懸命に生き、学んだ多くの知恵が、夫婦生活で十二分に生かされたものと確信しています。結婚当初に夫から「可哀相に、君は人間として、言葉は悪いが片輪なんだな」と言われた。それは私を正しく理解していた人間がいたとホッとしたと述べています。それを読むと高峰さんの人間性がが、はっきりと分るような気がします。
東京物語(小津安二郎監督1953年作品)
秀子の車掌さん(成瀬巳喜男監督1941年作品)
ノッティングヒルの恋人(ロジャー・ミッシェル監督1999年作品)
https://youtu.be/LRxVkt9Eg9o (聞けます)
サウンド・オブ・ミュージック(ロバート・ワイズ監督作品)
天地明察 (滝田洋二郎監督2012年作品)
「授時暦を切れ!」
あらすじ
江戸幕府四代将軍家綱の頃。将軍家お抱え囲碁四家の一つ安井家二代目棋士安井算哲(岡田准一)は、天文・暦学・和算に秀でていて時の将軍後見役会津藩主保科正之(松本幸四郎)江戸屋敷に逗留し日時計や天体観測所を作り、夜空の観察にのめり込んていた。
また算哲は、和算にも関心があり金王八幡宮に奉納された「算額」の設問を解くことに熱心だった。将軍の上覧対局の朝も八幡宮で設問を解いていると境内を掃き清めていた女性と出会う。しかし、上覧対局のため慌てて江戸城に出府。城内では安井家と本因坊道策の対局が始まる。いつも勝ち負けの決まった棋譜どおり打つのが建前だったが、その日は真剣勝負を行うことにして先番の算哲は天元に打って周囲や将軍を驚かせた。ところが対戦中に日食が起ったためすべての儀式は中止になった。
その日、算哲は藩主保科正之に呼ばれ、幕府として「北極出地」(各地で北極星の高度から場所の緯度を測る作業)を行うので、一年間やってくれと頼まれる。その帰り八幡宮の設問が一瞥直解した関孝和(市川猿之助)という人物を知り、会いたくて村瀬和算塾を訪ね義益(佐藤隆太)に会う。そこで八幡宮であった女性が妹えん(宮崎あおい)だと知る。算哲とえんは互いに惹かれる。
北極出地隊は頭取を建部(笹野高史)・副頭取伊藤(岸辺一徳)とし、運搬の馬道具設備一式と総勢十数名。歩数による距離、現地での観測に出立。小田原・熱田・薩摩(頭取が体調を崩す)・銚子・大間と回ったが一年の予定は長引き、一年半の歳月が過ぎた。やっと終わり村瀬塾に寄ると妹のえんは、事情があって嫁いでしまったと義益は残念がる。そんな中、算哲は水戸光圀(中井貴一)から呼ばれ、さらに保科公から呼ばれ、現在の暦が古く誤差が生じているので正しい暦を作れと命じられる。
江戸の会津領には観測所が作られた。そこには過っての師山崎闇斎(白井晃)も加わる。現行の「宣明暦(唐)」「授時暦(元)」「大統暦(明)」の三種類があり、観測所では、冬至・夏至・秋分・日食・月食・日の出入り・月の観測など徹底的に実態と比較。その中で「授時暦」が合致しており、それを採用すべきと朝廷に具申したが公家衆が却下。そこで三暦勝負に出たが六戦目が不正解。
なぜ「授時暦」の日食が不正解だったか関孝和にも分からなかった。関は自分の算術の成果を算哲に渡し、観測で解明しろと促す。算哲はえんにプロポーズして10年かかってもやり通す決意をする。そんな中、算哲は光圀公から世界地図を借り地球儀を作る。そして地球儀を見て居るうちに北京と江戸の時間に気づく。「授時暦」は時間差で日食が当たらなかったものと発見する。
そこで算哲は「授時暦」とは違う独自の「暦」を作った。その暦を水戸光圀は「大和暦」と名付けて朝廷へ上奏した。しかし、公家衆が反発し逆に「大統暦」に改暦した。絶望した算哲は光圀に苦言を呈した結果、ラストチャンスとして「大統暦」と「大和暦」の日食の違いで勝負することになる。
京都の梅小路に日食観察舞台を設置。その日「大統暦」は日食なし、「大和暦」は日食ありの予想だった。当日の朝は雨。しかし止んで晴れたが曇になる。午の刻直前で算哲は切腹の覚悟をしたが、ついに日が照って、日食が起り昼なのに暗くなって、星も見えるくらいだった。「大和暦」の予想が的中したため朝廷は1684年「大和暦」を「貞亨暦」して新たに採用した。
感想など
鎖国の江戸前期だからコペルニクスの地動説も地球が丸いことも国民は誰も知らない。日の出や夜空の星が謎を秘めていて、季節が廻り来て、暑かったり、寒かったり。大風が吹き大雨が降る。そんな自然環境は人間がはかり知ることのできない不思議な現象であった。そんな神秘な世界に関心を持ち、天体の謎に挑み、観測しその結果から新しい暦を作った人がいた。それが一介の碁打ちで30石12人扶持の安井算哲であり、暦の作成により、名を「渋川春海」に改め幕府初代天文方になり、250石取りの幕臣になった。
江戸幕府の一介の囲碁打ちが、和算・天文の知識を買われ、改暦の責任者に将軍後見役藩主から命ぜられる。既存の暦と実態を徹底的に検証して、元の「授時暦」がよいと諮問する。しかし、暦に日食がなかったため却下。それに発奮して10年後、原因を突き止め新暦を作成。それが1684年採用ざれ「貞亨暦」と名づけられた。
当時、清和天皇(862年)のとき唐の時代の「宣明暦」が採用されていた。一太陽年を365.2446日としていたから実際は365.2425日だから800年以上経過しいれば二日の誤差が生じる。算哲の作った「貞亨暦」は、365.2417日としている。誤差が生じれば、実際の日食や月食の予測は全然当たらない。また、当時日食や月食は為政者の不徳によっておこるものと思われていたから暦に対しても迷信的な要素が強かったようだ。
江戸の碁打ちが将軍前で上覧対局するシーンがある。本因坊道策と安井算哲の対局だ。将軍から5mくらい離れていたので見ずらい。先手算哲は天元に打った。実際の棋譜は残っているので、滝田監督のご愛敬で場面を作ったのだろうが、次の道策の白は隣に付けた。中央で「五目並べ」もどきの接近戦である。棋譜では、次の一手が右隅目外しに打っている。その日、日食があってその対戦は中止になった。将軍は面白がっていたが、どうも儀式めいていた。信長は本能寺に宿泊の際、和尚と囲碁を打ったという。家康も囲碁好きで、本因坊に五子置いて打ったというから天下人は囲碁フアンだった。
道策と算哲の棋譜
追記・・安井算知役で、きたろうさんが出ていました。彼はNHKの囲碁番組で生徒で出ていたはずです。上覧対局で棋譜と違う打ち方をしていたのに異議を言わなかったのが不思議です。
岡田准一演じる「安井算哲」は、純真で素直で清々しさがある。おっちょこちょいの部分も楽しい。囲碁にも算術にも暦にもただひたすらにのめり込み夢中になって悔やまない。こんな人柄だから会津藩主や水戸光圀に可愛がられ、公家の土御門泰福や北極出地隊頭取にも愛されていた。また、村瀬義益兄妹にも好感をもたれ、妹を妻にすることができた。そんな人徳が改暦という大事業を成功に導いたのだろう。関孝和も改暦に関心を持ちライバルとして研究していたようだが、人脈の広い算哲に敵わなかったようだ。
宮崎あおいの演じる妻「えん」は笑顔の演技が中心。算哲の帰りを1年待ったが待てず他家に嫁いだ。しかし、直ぐ離縁されて兄の実家に戻る。また「三暦勝負」で3年待って、今度は添い遂げる。算哲は「俺より先に死ぬな」と頼む。えんも算哲の腹切りが係った時「私より先に死なないで」と算哲に頼む。そんな願いが叶ったのだろうか。算哲は63歳で亡くなったが、えんも同年同日亡くなったという。
脇役が凄い。松本幸四郎・中井貴一・市川猿之助・市川染五郎など。他にも岸部一徳・笹野高史・染谷將太などなど。史実を想像力で膨らませ面白く仕上げていて大いに楽しい作品である。
ギャラリー
タイトル 金王八幡宮での算哲とえんの出会い
家綱の上覧碁 えんは村瀬塾の妹だった
北極出地隊に加わる算哲 北極出地隊は全国を回る
観測所を設置 三つの暦の検証を開始
算哲は「授時暦」を推薦 三暦勝負の五戦までは順調
観測所が焼き討ちに会う 六戦は敗退 朝廷は「授時暦」を却下した
関孝和は「授時暦」を正せと資料を出す 算哲はえんと2人だけ祝言を上げる
水戸光圀から世界地図を借り地球儀を作る 再度の上奏に「大統暦」朝廷は採用
算哲の「大和暦」と「大統暦」の実地決戦 「大和暦」(貞亨暦) のとおり日食になった
蜩ノ記(小泉堯史監督2014年作品)
「我が藩の騒動は公儀にも知れた。お家のために其の命と名誉を
わしに預けてくれ」
(羽根藩六代藩主三浦兼道から戸田秋谷への下命)
あらすじ
豊後羽根藩の奥祐筆(書記)の壇野庄三郎(岡田准一)は、お役目中に風で筆の墨がご同役水上信吾(青木崇高)の家紋に飛んだため信吾と言い争いになり、庄三郎の小太刀が信吾を負傷させる事件が起こった。城中での喧嘩は両成敗の切腹だが、中根家老(串田和美)は信吾が甥であり、なかったこととして庄三郎を隠居させ僻村で家譜編纂をしている戸田秋谷(役所広司)一家の監視兼家譜清書の役目を命じた。
家譜編集をする秋谷は7年前に江戸詰めの頃、主君の側室と密通した廉で捕らえられ切腹を命じられた。しかし、秋谷は羽根藩の歴史にも通じていたので藩主三浦家の家譜編纂中でもあった。そのため家譜完成の10年後に切腹せよと延期されていた。もし、秋谷が他藩に逃亡の際は、極秘情報を知る一家を切れと庄三郎は言われる。
僻村の秋谷一家には、妻織江(原田美枝子)・娘薫(堀北真希)・長男郁太郎(吉田晴登)がいた。秋谷は家譜編纂と畑仕事や寺子屋で村のこどもに学問を教えていた。ある日庄三郎は寺の慶仙和尚(井川比佐志)から秋谷の事件の顛末を聴かされる。旧藩主の正室お美代の方(川上麻衣子)の子と側室お由の方(寺島しのぶ)の子の世継ぎ争いが下地にあったこと。お由の方と幼馴染であった秋谷は望んで罪を背負い、御家断絶を救ったというのだ。
一年後、中根家老から呼ばれた折り、庄三郎は松吟尼となったお由の方に会うことを願い出て面会した。松吟尼は「当夜、居室に刺客が入り、こども鶴千代をを殺した。そこへ秋谷が来て自害しようとしたお由に生きよと力づけた。秋谷には何の落ち度もない。大殿から許されたので秋谷殿も許されていると思っていた」と告げられた。後日、慶仙和尚に元に松吟尼が訪ねてきて、庄三郎に会いたいというので、薫と共に会い、大殿から松吟尼へ渡されたというお美代の方の由緒書を見せ秋谷に渡してほしいと言われる。
由緒書を見た秋谷は「お美代の方の父親は存在しない旗本の名だ。たた、福岡藩士に縁故者がいる」と首をかしげる。庄三郎は関係改善した信吾に福岡藩士の様子を調べてもらうと羽根藩の御用商人「播磨屋」の先代であることが判明する。由緒書は中根家老が、捏造したでたらめのものだったと分かる。
由緒書の存在を知った中根家老は、秋谷に対し渡すよう命令の使者を向かわせたが秋谷は断る。そんな中、「播磨屋」と組み農民に過酷な年貢取り立てようとした郡奉行が農民に川に投げこまれた。実行した農民の息子源太が目付に捕まり、拷問で殺された。源太の友達だった郁太郎は、上役の中根家老に仕返しするというので庄三郎も一緒に行き、家老を追及したので、二人とも牢屋に入れられる。
中根家老は、捏造した由緒書を返せば、二人を返し秋谷も無罪にしてやると信吾を使いに出した。それを聞いた秋谷は「中根家老と直談判する」と出かけた。由緒書は慶仙和尚の寺の記録として残し、秋谷は中根に渡した。「偽りのない事実を歴史として残しても御家は守られる。自分は大殿に歴史を鑑とせよとのお約束した。約束通り腹を切ります」と言うと「さて、自分は死人の同然なので」と源吉の仕返しだと中根家老に一発くらわした。そんな家老だが、意外と怒らなかった。「義を見てせざるは勇無きなりか。義とは良民のことか。耐えてもらったことを返す時期だ」と反省しきり。庄三郎と郁太郎は解放されたので秋谷は連れ帰った。
10年が経過し、羽根藩主三浦家の家譜は完成した。家譜にはお美代の方の由緒書のとおり記載されている。また、お家騒動の部分は不祥事として関係者が処分されたことが記載されていた。庄三郎は戸田薫と祝言を上げる。また、郁太郎は元服して戸田家は羽根藩家臣として復活する。
そしていよいよ秋谷は切腹を行うため家族に見送られ家を立ち去る。
感想など
時代劇を見ていると超法規的な処理や理不尽な場面が結構あるが別に驚かない。現代のような厳格な管理社会でのコンプライアンスを求めない時代と暗黙の裡に思うからだ。「喧嘩両成敗を見なかったことにする」「家譜作成のため10年間切腹を執行猶予する」など寛大さは当然のように了解しよう。
藩主に何人かの側室がいると、側室達はそれぞれ自分の子をお世継ぎにしたいと思う。そんな一方の側室が対抗馬に刺客を向け、若様を殺したとなるとお家騒動として、幕府から改易処分を受けてもやむを得ない話だ。そんなお家騒動を封印するため、若様は病死にし、側室は不義密通として、でっち上げたというもの。それは改易を逃れるための藩主の苦渋の選択であり側用人だった秋谷に犠牲を強いたものだった。
戸田秋谷は落ち度がないのに密通したという罪を背負って自己犠牲を甘んじる。藩のためには滅私奉公することが忠義であり、武士の美学だと信じている。忠孝は中国の儒教の思想を源流としている。寺子屋で秋谷は孔子の「論語」講義している。
壇野庄三郎は寛大に切腹を免除され、秋谷の元に行き人間性に無関心を持つ。不義密通は羽根藩改易のカモフラージュで、更に現藩主の母親お美代の方の由緒書が家老による捏造であることも露見させたので、秋谷を無罪にさせたかったが羽根藩の安どのため家譜には、それら事実として書けなかった。
お大名のお家騒動で改易やお取りつぶしは江戸時代でも300も頻繁に行われた。有名なのは忠臣蔵の赤穂藩。越後高田藩松平家などある。事情は、後継ぎ不在が多いが、乱暴狼藉、発狂・乱心、藩内騒動、刃傷、失政・喧嘩など理由はさまざまである。
この映画の羽根藩は、お世継ぎ争いを側用人だった戸田秋谷と側室が不祥事を起こした事件として幕府にカモフラージュし改易・お取りつぶしの難を逃れたというものが主軸の話で、更に家老の正室の由緒書の捏造や戸田家見張り役壇野庄三郎と戸田家との交流、娘薫との恋愛結婚、息子の成長と元服などが絡んで広く展開している。
江戸時代の忠孝に徹した武士の精神的生き方を描いているし、命令で右往左往する単純な家来達もいて、チャンバラや格闘シーンも何回か見られる。また権力者が歴史に残すため事実を捻じ曲げている場合もあるが、資料さえ残しておけば、後世の人は本当の事実を探りあてられるということも暗示している。現代人の生き方とはかけ離れた内容だが時代劇はこういうものだというエンターテイメントとして楽しめる作品。
ギャラリー
祐筆の庄三郎は信吾と喧嘩し隠居させられる タイトル (戸田秋谷の日記帳の題名)
秋谷の家譜編纂の清書と見張りを下命さる 庄三郎は戸田家に住み込む
家族は藺草でござを作る 松吟尼(お由の方)と庄三郎は面会
松吟尼からお美代の方の由緒書をもらう 郁太郎は源太の仕返しに家老に面会
庄三郎と郁太郎は牢屋に入れられる 秋谷が家老に会い由緒書を渡す
藩主兼道に秋谷は命と名誉を預けた 庄三郎と薫は祝言をあげた
郁太郎は元服して家督相続する 秋谷はよき妻と子供に恵まれたと感謝
切腹のため家族との別れ